絵本と愛と子どもらと

目指せ3000冊の絵本レビュー。おすすめの絵本を、季節や行事や年齢ごとに紹介します。時々子育てコラム。私のおススメはタイトルに★をつけています。

なんでもありすぎるから選べない都会と、多様性からはほど遠い窮屈な田舎②

前回は都会の不自由さの話。
今回は田舎サイドの辛い話。


前回の記事
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私が生まれ育ったのは人口1万人ほどの小さな町だった。
半分が田んぼ、半分が畑、そして養鶏場と養豚場、
あと小学校が3つと中学校が1つだけの町。
進学校といわれる県立の高校は、のぼり電車で20分+徒歩40分か、くだり電車で20分+徒歩30分か。
どちらか。
私立の学校は田舎では滑りどめ。都会と逆。

こんな田舎に住んでいると何が起こるかというと、弱者が更に辛い立場に置かれる。
コミュニティから排除されるのだ。

「多様性」「ダイバーシティ」と騒がれる今日この頃だが、そんなものは田舎という場所にはない。
田舎は少数派を容赦なく差別する。
そもそも自分たちが少数で、本当に小さな世界に生きていることを忘れて。

例えば障害の話。
「子どもの発達障害が」「グレーゾーンはどちらに」「どんな治療が」という話題が都会に住んでいる当たり前にできるが、
田舎の親や先生はまずその知識がない。
診断する病院もない。
特別支援学級(私の頃は特殊学級)にいるのは明らかに知的障害のある子だけ(だった。私の時代は。なんとなく今もそうだろうなと予測する)。
知能が普通もしくは高い発達障害児はいじめられるしかない。行き場がない。
助けてくれる知識のある親も先生もいない。

発達障害だけではない。
私の母親は「あの子とは遊ぶんじゃない」といつも命令してきた。
そういう子たちは、今考えると、明らかに貧困な家庭や生活保護の家庭だった。
私には大切で楽しい友達に変わりはないのに、とても理不尽だった。

そう言っている母親だって、我が家だって、
母子家庭で年収300万円くらいしかなかったであろう超貧困家庭だったくせに。
母はプライドが高く、子どもに苦労はさせていない姿を世間に貫いた。
自分が弱いのに、更に弱い人を叩き、排除する。
そうすることで自分の立ち位置や精神を保とうとする。
人間とは悲しいものだ。

そうやって田舎は弱者を叩く、陰口を言う、排除する。
異質な人がいたり、誰かが何かをやらかしたとわかると、一晩で町中に知れ渡る。
噂を広める。
次の日には学校の友達に知れ渡っている。

墓地の土地を巡って争いがおこり、村八分事件を起こし、マスコミに「こんな時代に村八分が!」とニュースになったこともあるこの町。
田舎は怖い。実感を持って、本当に怖い。

***

それがどうだろう、都会にいると弱者は都会の「匿名性」の中に紛れることができる。
障害のある人が街で奇声をあげようと、誰も指をさしたりしない。
「いろんな人がいるから」で片付けて消化してくれる。
この匿名性を冷たいと言う人もいるが、精神疾患を患ったことのある私には、こんなに優しい場所はないと思った。

だれにも自分を見られたくない。注目されたくない。
みんな、こんな弱くて変な私のことを忘れて、見ないで、空気のように扱って、と思う。
都会はその通りに私を空気にしてくれる。空気として存在を受け入れてくれる。受け入れるというか見て見ぬふりというか。
それがなんと軽やかであろうか。
精神科から出て来ようと、誰もじろじろ見ない。何も思わない。この素晴らしさをわかるのは田舎者だけかもしれない。

でも本当に人に助けを求めるときには、その辺を歩く人も親切にしてくれるし、相談できる機関も山ほどある。
言うほど冷たくはない。ちゃんとみんな人間らしく優しい。

都会は私にとって素晴らしい、最高の場所だ。
弱者である限り、ここを離れることはできない。離れることは恐怖だ。

高齢者という弱者になった時にも、都会の方が住みやすいと思っている。
交通機関は発達し、買い物は便利で、医療機関もいくらでもあり、文化施設もたくさんある、
自分を排除することのないコミュニティも見つかるだろう。

「いつまで東京で疲弊してるの?」と田舎に行ったブロガーさんがいましたが、
私にとっては田舎の方が疲弊し、自分らしくいられない。
常に人の目を気にしなくてはいけない苦しい場所。

たまに行くくらいでちょうどいい。

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私の育ったところに、娘を連れて行ったとき(2歳7か月) 千葉県ですが、東日本大震災津波で死者がけっこう出ました。あまり知られていない。

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娘と私で手を繋いで。ちなみに岩井俊二監督の「打ち上げ花火」の撮影場所です。駅での撮影シーンを見ました。